2009年11月12日木曜日

「或る音楽」舞台挨拶


映画「或る音楽」は、映像作家・音楽家の高木正勝さんのコンサートプロジェクト「タイ・レイ・タイ・リオ」を、高木さんへのインタビューを織り交ぜながら追ったドキュメンタリー。初日には、友久監督と高木さんが舞台挨拶にいらっしゃいました。

 高木さんによると、コンサートタイトルは、「ゆっくり振れ、ちいさく振れ」という意味のポリネシア語だそう。世界中を旅しながら作品を作る高木さんは、今回のコンサートのテーマを「音の起源と神話」に求め、世界中の神話からインスピレーションを得た楽曲でコンサートを構成しました。

「今ではあたりまえになって広く習慣になっていることって、個人的な行動が始まりだったりするんです。お正月の鏡餅とか、神社のかしわ手とか。あれってどうしてパンパンって音をたてるか知ってますか? 神様を音で起して願いを聞いてもらうっていう意味があるんですけど、それだって誰か一人が最初に始めたことですよね。音楽も、誰か初めて音を奏でてみようと思った人がいて始まった。その時代に思いをはせてこのコンサートは出来上がりました」

「今日は2人連れで来られてる方も多いかと思うんですが、2人で映画見てるときって、『隣の人は楽しんでるだろうか』とかがお互い気になって、2人の間にもうひとつの人格ができちゃったりしますよね。でも今日はそういうことを忘れて、ひとりになって感じることを感じていただけたらな、と思います。自分で音楽を作られたり、創作される方もいると思うんですけど、自分が初めて音を奏でたとき、初めて文章を書いたときを思い出してほしいですね」

 

さらに話は高木さんの謎に包まれた私生活? へ。

「最近、家の屋根にのぼって楽器を演奏するのが好きなんですけど、そのうち周りの家からもいろんな楽器の音がするようになって。近所の子供が僕の音に反応して、真似してたんです」

「純粋なところから染まっていくわけですね」と友久監督。

「そうですね。あと、窓を開けてピアノを弾いてたら、鳥が窓のそばに寄ってきたりね。山に向かって弾いたり。遠くのものに向かって語りかける感覚です」

 癒されますね。


 また、神戸アートビレッジセンターは友久監督のホームでもあります。以前KAVCの大学生の自主映画創作企画「シネック」に参加していた監督は、在学中にぴあフィルムフェスティバルで入選。ますますの活躍が期待される新進気鋭の監督です。


「或る音楽」は9/25まで16:00から上映中(24日木曜は休館)。

「今、僕は・・・」竹馬靖具監督 ティーチ・インレポート


 引きこもり青年・悟の日常と心の揺れを描き、海外の映画祭でも絶賛された「今、僕は・・・」。竹馬監督が上映終了後、ティーチ・インを行いました。


 この日は前の回に「精神」想田監督のティーチ・インがあり、始めは竹馬監督がひとりで話していたのですが、客席で聞いていた想田監督が飛び入りして、トークショーの体に。

 おふたりは竹馬監督が「今、僕は・・・」のサンプルを想田監督に送って以来のお知り合い。ふだんからたくさん送られてくるサンプルを見ることは少ないそうですが、お二人は奇しくも栃木県足利市の出身で、何となく縁を感じてご覧になったそうです。そうしたら完成度の高さにびっくり。「初めからこんなの作られちゃ、かなわないなあ」と笑っていらっしゃいました。


 それから制作の裏話に。この映画はたった50万円の資金をもとに、mixiで立ち上げたコミュニティでスタッフを募って作られたそう。「あのカメラはすごく主張するカメラだったけど、あれも素人の方?」と想田監督。「結婚式場で撮影を担当してる方です」と竹馬監督。実際、独特の紗がかかったような色合いの画面はとても美しく、作品世界を盛り上げていました。


 ラスト、悟と藤澤が山道を走るシーンは、なんと200回もやり直したそうです。商業映画では考えられません。低予算、ボランティアスタッフだからこそできた贅沢な試行錯誤ですね。


 竹馬監督、想田監督、ありがとうございました!

「精神」想田和弘監督 ティーチ・イン レポート(8/15)


ングラスをかけてさっそうと登場した想田監督。「格好つけてるんじゃないですよ。家で7.5匹猫を飼ってるんですが、猫アレルギーになっちゃって。0.5は餌だけ食べにくる近所の猫です」と、初手からお客さんを笑わせます

 ティーチ・インは10:30と16:25の回終了後にそれぞれ行われ、お客さんから鋭い質問がひきもきらずにきました。その中のいくつかをピックアップしてご紹介します。(Qは質問者、Aは監督)


Q:「前回は『選挙』で、今回は『精神』。まったく違うテーマを選ばれていますが、どうして精神病院を舞台に映画を作ろうと思われたんですか?」


A:「僕は東大出身なのですが、在学中に東大新聞という週刊の新聞の編集長をしていました。これがなかなかの激務で、毎日休みなく朝から晩まで働いていたら、ある日身体が全然言うことを聞かなくなったんです。おかしいぞと思って精神科へ駆け込んだら、燃え尽き症候群と診断されて。それまで精神病というのは特別な人たちがかかるものだと思っていましたし、友人たちからも、「精神科は自分から駆け込むところじゃないぞ」と揶揄されました(笑)でもそのとき、精神病が決して特別なことじゃないということが分かりました。僕自身にもあった『見えないカーテン』を取り払って、それを伝えたかった」


Q:「毎日患者さんと会って深刻な体験を聞くことで、ご自分がバランスを崩しそうになったことはなかったんですか?」


A:「僕はカメラごしに、アングルとか絞りのことを気にしつつ聞いていたので、どっぷり話に浸かるということは実はなかったんですが、妻(振付師のキヨコさん)は120%彼らに向き合って話を聞いていたので、ミイラとりがミイラの状態になってしまいました。結構激しい落ち込みが続いて、「この状態が続くようだったら、キヨコを岡山に返して」と義母に言われ、「ええー、離婚?」と焦りました。妻は自分で山本先生(こらーる岡山の医師)の診察予約を入れ、僕はやっぱりそこは映画監督なものですから、夫としての思いとは別に「これはすごいシーンが撮れるかも!」と思ってしまったのですが、「あんたの悪口言うんだから駄目!」と拒否されてしまいました(笑)。妻は診察後はスッキリした顔で出て来ましたよ。今では笑い話です。


Q:「出演されていた患者さんたちの、映画を見終わった感想はどうでしたか」


A:「それは僕が一番気にかけていたところです。映画を見ることで症状が悪化してしまう人が出たら、と恐れていました。実際、「見たくない」という人も何人かいました。映画の中で過去の辛い体験を告白している藤原さんもその一人で、僕は迷いに迷って彼女のシーンを入れたんです。岡山での試写の途中で藤原さんが現れて、「あのシーンは入れたんですか」って聞かれ、入れましたと答えると、「わたしはもう生きていけない」とショックを受けていました。僕も彼女の様子に「どうしよう」とうろたえていたのですが、映画の冒頭に出てくる美咲さんが、「でも、わたしはこれを見たことで、あなたのことが深く理解できた」と助け舟を出してくれたんです。藤原さんも美咲さんの言葉をきっかけに、徐々に納得してくれました。そうやって、患者さん同士で支えあって、議論してくれたことで、全国公開までこぎ着けられたんだと思います」


 最後には、藤原さんからもらったという手紙を朗読されました。真摯でユーモアのある手紙でした。


 参加してくださった皆さん、想田監督、ありがとうございました!

「マン・オン・ワイヤー」

の活動は黒点の多いときは活発に、少ないときは抑制されます。そして去年の夏からずっと、ひとつの黒点も見られないとか。このままの状態が続けば、地球はミニ氷河期に入るという説も。17、18世紀には毎年ロンドンのテムズ川が凍っていたそうです。その頃と同じような気候になったりして。温暖化から一転、寒冷化? 

 映画「マン・オン・ワイヤー」を見終わったとき、なぜかこの話を思い出しました。拙い想像力では説明できない、未知なるもの。 

 「マン・オン・ワイヤー」はフィリップ・プティというフランスの大道芸人についてのドキュメンタリー。彼はごく若い頃から大道芸に目覚め、世界各地を飛び回るうちに綱渡りに傾倒していく。フランスのノートルダム寺院の2本の塔の間、オーストラリアのシドニー・ハーバー・ブリッジでのゲリラ綱渡りを成功させ、次に目標に定めたのはニューヨークの今は亡きワールドトレードセンター、ツインタワー間。まだ建設途中のビルに通いつめ、構造と流通システムを研究した末、計画に賛同してくれた友人たちと共に、ツインタワーの対角線に「非合法で」綱を渡してしまう。そして地上400mに張られた一本の綱に足を踏み出す。 

 多分この人はどこかが壊れてしまっているんでしょう。インタビューを見ているとただの害のなさそうな多動で陽気なおっさんなのだけど、彼の内面はきっとものすごく偏っていて孤独なのでは。選ばれてしまった人というのはみんなどこかが壊れていて、その代償として才能を与えられている気がします。その相克に悩む前に何かが彼らを動かす。 

 フィリップがツインタワーのあいだを行き来したのは45分間。途中、自分を突き動かす存在に敬意を示すようにかしずく様は胸苦しいほどに美しい。誰にも理解はできない。ショーを終えて逮捕されたフィリップはマスコミや検事に「なぜあんなことをした?」と聞かれてその度に応えます、「理由はない」。 

 説明することができないからこその美しさというのは畏敬と寂しさを呼びます。理解を拒むもの、絶対の孤独を甘んじて受け入れているものを見るときの、やり場のない気持ちを。 

 彼は大勢の人に熱と興奮をもたらした、でもその内側はアラスカみたいに冷たい。その冷たさを思ってわたしは寂しくなります。

「CLEAN」

2004年のカンヌ映画祭でマギー・チャンに主演女優賞をもたらした本作。なぜか未公開のままでしたが、KAVCでは今秋公開です。


何はなくともエミリーを演じるマギーの魅力で、画面から目が離せません。夫と共にドラッグに溺れ、5才になる息子は義父母に預けたまま放埒な生活を送る(って、最近似たような話をニュースで聞いた気が)エミリーは普通の感覚では最低な女ですが、マギーが演じると人間的な脆さが先に立って、どうしても憎めないんですよね。


ロックミュージシャンの夫をオーバードーズで亡くしたダメージと、自身もドラッグ使用の罪で収監され、社会的制裁を受けたことで、もう一度人生をやり直そう、とかつて住んでいたパリに行くエミリー。ここで旧友たちの助けを得ながら、離れて暮らす息子ともう一度会う算段をつけようとするんですが・・・


個人的な見どころは息子ジェイをめぐるあれこれよりも、エミリーと旧友たちとのやりとり。フランス人って情に厚いイメージはまったくないんですが(失礼!)、住む家がないとなれば手を差し伸べたり、禁断症状に苦しんでいれば代用薬を手に入れてくれたり、しかもそれをさらりとしてしまう。いい人ばかりだ。

わたしが旅先で知り合った何人かのフランス人は、いい人とそうでない人の落差が激しくて、それはどの国民でも一緒なのかもしれないけど、平均ということばが似合わない人たちだなあ、と思っていました。実際のところはどうなんだろう。


それから、エミリーが訪れる何軒かのパリのアパルトマンが、それぞれにおもむきが違ってとっても素敵です。広い前庭のある一軒家ふう、ちょっと冷たい感じのするデザイナーズ、洗練されたエスニック調。パリに住みたくなります。同じアサイヤス監督の「夏時間の庭」でも「家」が重要な役割を果たしてましたが、何かこだわりがあるのかもしれないですね。


ストーリーとは全然関係ないところで興奮してしまいましたが、もちろん1人の女性の再生というテーマでも見応えがあります。

お楽しみに!

「彼女の名はサビーヌ」

彼女の名はサビーヌ(8/22〜)


「仕立て屋の恋」のサンドリーヌ・ボヌールの妹サビーヌは、自閉症という適切な診断を下されることなく精神病院に入る。5年後退院したときには、薬の副作用で30キロ太り、動作も思考も鈍くなり、極度の人間不信に陥っていた。障害者と看護人が対等の立場で過ごせるグループホームに預けられると、精神的には安定したが、5年の間に失われたものはあまりにも多かった・・・


 映画は、現在のサビーヌの暮らしに、入院前のサビーヌのホームビデオ映像を差し挟む手法で進みます。若い頃のサビーヌと、現在のサビーヌがカットバックする場面などは、ついあざとさを感じてしまったりもするんですが、昔のサビーヌの美しく生き生きした様子と、焦点の定まらない目をした現在が違いすぎるので、監督が何気なくした編集にも、見る側が必要以上に意味を読み取ってしまうのかもしれません。


 「へえ〜」と思ったのは、ホーム入居者の親や、看護人が語るフランスの障害者支援の現状。ヨーロッパだから進んでるんだろうな、という逆偏見があったのですが、日本の方が制度としては整ってるかも、内容はともかく。つい最近までサビーヌに適切な診断が下っていなかったというのにも驚きました。みんなと違う人をすぐに異化・分別したがる日本と違って、超個人主義の国・フランスでは、障害も個性のひとつと見なされて、支援という考えが起きにくいのでしょうか・・・。

 出演している看護人に美男美女が多いのは偶然か、という下世話な点も気になりつつ。


 サンドリーヌは偽善的と批判もされたようですが、何もしない正直者より行動する偽善者の方が価値は高い! 7月に上映された「ベルサイユの子」と同じく、フランスの今をかいま見せてくれる映画です。

「今、僕は」

今、僕は(8/15〜)


 ひきこもりの人たちというのはおもてに出てこないから「ひきこもり」なのであって、言葉はよく聞くけれど、実生活で会うことはないんじゃないでしょうか。想像するしかないから、情報も画一的になる。ひきこもる個々人の事情や思いが千差万別であっても。

 私事ですが、高校生のとき亡くなった叔父は、40を過ぎても祖母と二人暮らしで、毎日何をするでもなく食事のときだけ部屋から出てきて、食事が済むとすぐ部屋に戻っていく人でした。けれど子供には優しくて、祖母の家に遊びに行くたび、よく将棋や散歩に付き合ってくれました。当時は「構ってくれる大人」という認識しかなかったのですが、今思えば完全にひきこもりですよね。でも記憶の中には金歯を見せて笑っている印象しかないので、「ひきこもり」に付いて回るネガティブなイメージは薄いのです。

 「今、僕は」は、(世間の、わたしの)「ひきこもり」イメージから欠落した生々しい生活感を見せつけます。主人公の悟はゴミの散乱した部屋でゲームと寝ることに終始し、母親とも極力話さない。感情を表す機会もない。昨日と今日と明日の境界も曖昧な日々。

 そこへ母親の友人・藤澤が現れ、悟を強引に連れ出し、自分の職場のワイナリーでのアルバイトを決めてしまう。もちろん社会経験のない悟だから、仕事をする上でのコミュニケーションなんてとれない。静かな苛立ちを募らせる悟。その苛立ちが、悟が初めて見せる人間らしい感情だが、実際に悟に変化を迫るのはワイナリーでの経験ではなく、思いもよらない出来事。

 結末には、「やっぱり荒療治しかないのか・・・」という無力感を覚えてしまいそうになりますが、逆に人には絶対に変われる可能性がある、という監督のある種ポジティブな主張ともとれます。ちなみに監督は主演も兼ねています。映画監督という人まみれになる仕事と、悟の演技とのバランスをどうやってとっていたのか、興味津々です。