2009年11月12日木曜日

「今、僕は」

今、僕は(8/15〜)


 ひきこもりの人たちというのはおもてに出てこないから「ひきこもり」なのであって、言葉はよく聞くけれど、実生活で会うことはないんじゃないでしょうか。想像するしかないから、情報も画一的になる。ひきこもる個々人の事情や思いが千差万別であっても。

 私事ですが、高校生のとき亡くなった叔父は、40を過ぎても祖母と二人暮らしで、毎日何をするでもなく食事のときだけ部屋から出てきて、食事が済むとすぐ部屋に戻っていく人でした。けれど子供には優しくて、祖母の家に遊びに行くたび、よく将棋や散歩に付き合ってくれました。当時は「構ってくれる大人」という認識しかなかったのですが、今思えば完全にひきこもりですよね。でも記憶の中には金歯を見せて笑っている印象しかないので、「ひきこもり」に付いて回るネガティブなイメージは薄いのです。

 「今、僕は」は、(世間の、わたしの)「ひきこもり」イメージから欠落した生々しい生活感を見せつけます。主人公の悟はゴミの散乱した部屋でゲームと寝ることに終始し、母親とも極力話さない。感情を表す機会もない。昨日と今日と明日の境界も曖昧な日々。

 そこへ母親の友人・藤澤が現れ、悟を強引に連れ出し、自分の職場のワイナリーでのアルバイトを決めてしまう。もちろん社会経験のない悟だから、仕事をする上でのコミュニケーションなんてとれない。静かな苛立ちを募らせる悟。その苛立ちが、悟が初めて見せる人間らしい感情だが、実際に悟に変化を迫るのはワイナリーでの経験ではなく、思いもよらない出来事。

 結末には、「やっぱり荒療治しかないのか・・・」という無力感を覚えてしまいそうになりますが、逆に人には絶対に変われる可能性がある、という監督のある種ポジティブな主張ともとれます。ちなみに監督は主演も兼ねています。映画監督という人まみれになる仕事と、悟の演技とのバランスをどうやってとっていたのか、興味津々です。

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